まずは、物語や故事から
○有名なところで、「平家物語」から那須与一の扇の的。
馬に乗り海に踏み込んで(波打ち際から約10m!)、しかも風も強く、船の上の揺れる的(その距離約80m!!)に当てるなんて、凄いですね。(ゴルゴ13か!?)。
で、この与一さんの弟が、那須大八郎で、宮崎の椎葉まで平家の残党狩りにきて敵方の鶴富姫(美人!!)と仲良くなったんですね。うっ、うらやましい!
その言い伝えを歌にしたのが宮崎の民謡で有名な「稗搗節(ひえつきぶし)」。
おっと、弓からだいぶ離れてしまいました。
扇の的の話、続きがあるんです。「義経の弓流し」と言います。
扇を射たれた平家の一人が船上で舞いだしました。義経は、これも射てと命じて(家来の一人、伊勢三郎義盛が義経がそう言っていると伝えたので本当のところは解りません)、与一は命に従い、射ました。相手は死んじゃいました。(与一が、平家の踊りが自分を馬鹿にしていると思って射ったという説もあります。) それがもとで戦闘が始まりました。
そのとき義経が弓を落としたんですが、危ない状況なのに、かなり無理をして拾い上げたそうです。部下に「なんであんな危ないことをするんですか」と怒られたときの答えがふるってます。「俺の弓は弱いから、平家に拾われて馬鹿にされたくない。」だって。いったい何キロ(弓の強さの表示です。一般成人男子なら15〜20キロ、入門者が10キロぐらい)だったんでしょうか。
それにしても、このとおりだとすると、戦の最中ということもあるものの、義経って意外と冷酷で野暮。無風流。見栄っばりだったんですかね。
判官贔屓で、いいところばかりクローズアップされますが、やはり人間。「黒・義経」の部分もあったということですね。
黒・義経=九郎義経。何か関係があるのでしょうか。・・・多分、無いと思います。(^^;)
扇の的『平家物語絵巻』巻十一
*扇の的を狙っている絵はたくさんありますが、
中った瞬間の絵は珍しいですね。
○「俵藤太物語」から藤原俵太(藤原秀郷)の百足(ムカデ)退治
百足といっても、時々見かける10cmぐらいのじゃなくて、山を七巻半もできるような大百足。退治しようと矢を射かけたけど、殻が堅くて刺さらない。そこで百足が苦手とする唾を鏃につけて「南無八幡大菩薩!!」と祈り放ったところ、百足に刺さり退治できた、というお話。
2018/02
俵藤太物語絵巻より
栃木県立博物館所蔵
*百足の大きさがよくわかります。
○「今昔物語」から
李広が草の中の石を虎だと見て、矢を射たところ、鏃が刺さった。改めて射たら刺さらなかった、という故事があります。
大元は、中国の「史記」ということです。
似たような話が、あちこちにあります。
管理人が記憶している話は、虎が猪になっていて、舞台は日本だったような気がします。バージョン違いでしょうか?
「虎と見て石に立つ矢のためしあり」なんて、講談なんかの決まり文句にもなっています。
○「今昔物語」から。その2
養由基という人は、トンボの羽を射たり、百歩はなれた距離から百発百中で柳の葉を射落としたそうです。だもんで「百発百中」の語源にもなってます。
この人、なんと太陽まで撃ち落としたという話もあります。
昔、太陽が十あって、とんでもない日照りが続くので、養由基が思い立って九つの太陽を打ち落としたという話です。すごすぎてコメントの付けようがありません。
この人がいたら、アトムも太陽へ飛び込まなくて済んだかもしれません。(ここのところ、分からない人は、お父さんかお祖父さんに聞いてください。)
○さらに古い話で「日本書紀」から
神武天皇が東征の際、苦戦していると鴟(とび)が神武天皇の持っている弓の先に留り、黄金の光を発し、敵を圧倒しました。弓が権力の象徴のように扱われています。
国旗掲揚の旗竿の由来は諸説ありますが、竿の黒白は重藤弓を、てっぺんの金色の珠は金の鴟を表しているとも言われています。
ちなみに竿の先端に付けているものを「竿頭(かんとう)」といい、いろんな形があります。「金の珠」の正式名称は「頂華(ちょうげ)」といいます。
くれぐれも「金○」と呼ばないように!
(^ ^)!
月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」
明治時代初期の版画
山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵
左・・・重藤弓
右・・・国旗の旗竿
○次はちょっとだけ新しい話で「山城国風土記」です。
(「日本書紀」は720年、「山城国風土記」は796年完成と言われています。)
伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話があります。
秦氏の祖先である伊呂具の秦公(いろぐのはたのきみ)は、稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいました。ある時、富裕に驕って餅を的にして弓で射ました。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去り山の峰に留って、その白鳥が化して、そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となりました。
伊呂具の秦公はその稲の元へ行き、過去の誤ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったといいます。
いまその木を植えて根つけば福が授かり、枯れると福はない、といいます。
稲荷神のご神木とされる「験(シルシ)の杉」の起源説話です。
稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられ、今に至っている訳ですね。
この話、似たような話があります。その一つが豊後国風土記・田野の条、もう一つが九重の「朝日長者」伝説。どちらも、驕り高ぶった金持ちが餅を的に弓を射たら、餅が白鳥になって飛び去り、金持ちは破滅への道を辿った。というお話です。
後者の伝説が元で、「長者原(ちょうじゃばる)」という地名が九重にあります。
また、その話を元に椋鳩十が「白い鳥」というお話を作っています。
○「椿説弓張月」
源為朝(源為義の八男で弓の名人)が主人公の冒険潭です。
この為朝さんの弓はとても強くて、十人張り(弓に弦を張るのに10人掛かりでないと弦が張れない)だったそうです。
また、守備もすごくて、当時名人と言われた式成(のりしげ)・則員(のりかず)が射た矢を最初の2本は手で受け止め、次の1本は着物の袂で受け、最後の1本は口でくわえ、しかも鏃を噛み砕いたと言われています。
良い子でなくても真似をしてはいけません。
なお、「弓張月」というのは、いわゆる「半月」。形が似ています。
あと、源頼政が鵺(ぬえ)退治に使ったとされる弓矢も、そう呼ばれています。
この弓、先に書いた養由基のものが伝わってきたという話もあります。
○中島敦「名人伝」
この話、けっこう好きです。
名人に弟子入りして弓の修行をします。
機織り機の下で、まばたきをしないように特訓をして、まぶたに蜘蛛の巣が張ったとか、蚤をジッと見つめていて、やがて馬ぐらいに大きく見えるようになったとか。様々な修行(?)をして名人(それすらも超越してるみたいですが)になります。いろいろと人間臭いところもあり、最後はちょっと寂し気な切ない結末です。ネットの「青空文庫」で読めますので一度いかがですか。(前に出てきた「今昔物語」「平家物語」も原文のままですがネットで読めます。)
ただ、私の記憶している話とはエンディングが微妙に違っているので、他にないのか現在検索中です。ご存知の方、ご連絡ください。
○池波正太郎「剣客商売」
も一つの、好きな話。
弓の名人が出てきます。
一人は、粘着質の敵役として、一人は主人公の小平と仲の良い剣客として。
それぞれ、いい味を出しています。
○日本のラストは、堀田あけみ「1980アイコ16歳」
これも大好きです。
主人公のアイコちゃんは弓道部。恋あり、笑いあり、悩みもちょっぴり。
名古屋弁はたっぷり、だがや。
冨田靖子主演で映画になりましたね(映画の件は、のちほど)。その原作です。
コミックにもなりました。もう知っている人は少ないかなぁ。
テレビドラマ・ラジオドラマにもなってました。こっちも知ってる人は少ないでしょうね。
著者は、なんと当時17歳の少女、堀田あけみさん。
今読み返してみると、あまりにも純粋で、キラキラしてて、汚れきった大人には少々きついです。
○中国の京劇「鉄弓縁」
茶店に飾ってあった「鉄弓」が縁で男女が出会い、めでたし、めでたしという京劇の演目のひとつ。
かなりコミカルです。ジャッキー・チェンが映画にすると面白いかも。でも、ジャッキーはもうアクション映画は作らないとか。残念ですね。
詳しく知ろうとして「鉄弓」で検索すると調理道具が山ほど出てきます。「鉄弓縁」で検索してください。
○西洋だと、ロビン・フッドやウイリアム・テルなんかが有名ですね。
ロビン・フッドは、中世イングランドが舞台。
シャーウッドの森に住むロビンを首領とする山賊団。と言っても当時の悪政に反抗し、体制から睨まれた連中が集まったグループ。庶民の味方で義賊。何となく梁山泊(梁山泊にも花栄という弓の名人がいました)を思い出します。
当時の王リチャードが十字軍の遠征で留守なのを良いことに、弟ジョンが圧政を引いていた。
そこでリチャードとロビンたちが協力してこれを懲らしめるというストーリー。
ロビンが使っていた弓は、アーチェリータイプ。
ウイリアム・テルは14世紀スイスが舞台。
当時スイスを支配していたオーストリアの圧政と戦う弓の名人テルの冒険物語。
悪代官の帽子に敬礼しなかったことを理由に、息子の頭にのせたリンゴを弓で射るように命じられ、見事に当てた話はあまりにも有名ですね。
テルが使ってたのは、確かクロスボウ。ほとんど銃と変わりません。
でも、矢が短くて矢羽根がついていないので狙いが今ひとつだったという話もあります。
いずれにしても矢の勢いはとんでもないので、狙われたくないですね。
ゴルゴ13も使ったことがあります。
クロスボウ(右上)とその矢(下)・巻き上げ器(左)
ビクトリア&アルバート博物館所蔵 Wikipediaより
○Vサイン
「Vサイン」と弓がつながるというのが不思議な気がしますね。
「Vサイン」が日本で有名になったのは「サインはV」あたりからでしょうか?
岡田可愛、中山麻理、范文雀、中山仁、一生懸命見てましたし、魔球(稲妻落とし)なんかも練習しました。(^^;)。
今や写真撮影の定番のピースサイン(かなりの古典になっていますが)ですが、元は第二次世界大戦中、イギリス首相チャーチルが、戦争の継続と勝利への強い意欲を表現するためにVサインを使用したということです。このときのVサインは、勝利を意味するVictoryの頭文字Vをあらわしたもので、手のひらは今と同じで相手方を向いていました。
さらに元をたどると百年戦争(ジャンヌ・ダルクが有名ですね)でイングランド軍の弓兵が、敵であるフランス軍を挑発するサインとして使用したのが発祥であると言われています。イングランドの弓兵隊は飛距離や貫通力に優れたロングボウと呼ばれる長弓を用いて、フランス軍に対して多大な戦果を上げたため、捕虜にされれば二度と弓を引けないよう、指を切り落とされることがありました。その指を敢えて見せ付けて、「切り落とせるものなら切り落としてみろ」や「この指があるうちは負けないぞ」という挑発やあざけりの意味合いがありました。最初に使用されたのは百年戦争のアジャンクールの戦いであると言われています。この頃の「Vサイン」は手の甲が相手方に向いていました。
最近、時々手の甲を相手に向けたVサインをして写真撮影をしているのを見かけますが、今でも国によっては相手に対してとても失礼な意味合いを持つので注意しなければなりません。中指1本を立てて相手に手の甲を見せることとほぼ同じ意味になります。
海外旅行で、写真撮影のときはくれぐれもご注意を・・・。
○最後に、「弓」に関係のある「矢」で、毛利元就の「三本の矢」の故事も忘れちゃいけませんね。
ある日、元就が三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元(病床でした)に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じました。息子たちが容易(たやす)くこれを折ると、次は3本の矢を合わせて折るよう命じました。息子たちは誰も折ることができませんでした。元就は、一本では脆い矢も束になれば強くなるということを示し、三兄弟の結束を強く説きました。という故事です。後で作られたという説もありますが、よくできた話です。
でも、矢三本、竹矢だったら、もしかして折れません? 経験者募集中!
ちなみに、「三ツ矢サイダー」とは別の話です。
マンガの話になりますが、昔「オバケのQ太郎」(いつの話だ!!)の中で、矢を鉛筆に変えたエピソードがありました。もっともその時は、二人兄弟だったので、二本の鉛筆をポキポキ折って、最後にはママさんに叱られるという落ちだったように覚えてます。
道具は大切に。
まだまだ、たくさんあるのでしょうが、すぐに思い出せるのはこのくらいです。
ここまできて、「あれ?」と思われた方もいらっしゃるのでは・・・。
「時をかける少女」がないじゃないか、と。
あなたは立派なOTAKUまたはその予備軍です。
確かに角川映画では、ヒロインが弓道部でした。原田知世ちゃん可愛かったですね。
しかし、原作の「時をかける少女」でも続編の「続・時をかける少女」でも部活の話は全く出てきていません。なので、ここでは出てきません。あしからず。
これで、ひとまず。一区切りです。
長々とお疲れさまでした。
次回は、なんでいきましょうか。 著作権の問題があるので、写真やイラストは難しいかも・・・。
お楽しみに・・・・・していただけると幸いです。
2013/06/20
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