高鍋藩のころから盛んに行われており、明治以降も町内に弓をたしなむ人が少なくありませんでした。明治から大正にかけての舞鶴神社の春秋の例会には必ず弓道大会が開かれ、児湯地区各町村から同好者が集まって、競射を楽しんでいました。また、大正14年8月16日には蚊口浜で県下弓術大会(高鍋弓術会主催)が開かれた記録があります。
戦後の昭和21年10月、連合国軍最高司令官総司令部指令によって武道全般が禁止、大日本武徳会(戦前の武道の振興、教育、顕彰を目的として設立された財団法人)が解散となり、宮崎県支部も解散、弓道用具を焼却しました。
しかし昭和24年5月に日本弓道連盟が結成され、翌年には宮崎県弓道連盟、昭和28年には児湯支部も発足し、年を追って盛んになっていきました。
昭和28年4月7日には、第1回高鍋町花祭弓道大会が開催されており、途中中断があったものの現在まで続いています。
やがて、町内の弓道愛好者の間から弓道場建設を要望する声が上がり、高鍋弓友会(昭和40年4月結成、現・高鍋支部)は、ついに昭和46年8月に弓道場(近的・6人立)を完成させ、これを町に寄贈しました。落成式は当初8月29日を予定していましたが、台風23号のため延期。9月5日に変更されましたが、県内から弓道愛好者130名が集まり、県弓道連盟・宗安正記会長(教士八段・当時)が、弓道四方拝の儀を行ったあと、競射会が開かれました。
この道場建設によって弓道が町民の間に広がり、女性の愛好者も増し、技能も向上していきました。
この道場は、控室の増設(昭和50年)などをしながら使用していましたが、平成7年、町の畑田土地区画整理事業で移転のため閉鎖され、同年、現在の弓道場(近的・10人立)が完成し、12月28日に落成式がありました。臼杵直孝町長(当時)や弓道連盟など関係者約30名が参加し、県弓道連盟・河野政則会長(範士八段・当時)が弓道四方拝の儀を、河野昭敏支部長(教士六段・当時)が矢渡しを行いました。翌年9月22日には落成記念大会が同道場で開催されました。
現在、町内で活動する弓道サークルは高鍋支部のほか、高鍋高校・14名、高鍋農業高校・6名ほどです。
(「高鍋町史」「宮崎県弓道史」から抜粋、一部加筆)
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2013/02/26
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